人生には生命保険であがなうことができない悲劇がある。
人生には生命保険であがなうことができない悲劇があります。
生命保険と言うものは、本質的に人生の悲劇の前には無力です。
生命保険は不幸にして起こった悲劇そのものに対しては、救いもしなければ助けもしません。生きている以上、人は必ず死ぬものですが、その順番が前後すると悲劇の度合いも大きくなります。
◆ 不幸は重なる悲劇。
保険時代のお客様に、子ども二人を亡くされた方がいます。本人は脳梗塞で20年以上半身不随です。車椅子生活をされています。
プライドの高い方ですから半身不随になってからは、人前にでることを避けてこられました。ご主人ができた方で、社会的な付き合いを絶って奥様のお世話を一身にされています。
10年ほど前にその方の次男が東京の大学に通っているとき、アパートで原因不明の突然死で見つかりました。気の毒と言うほかない葬式でした。
子供に先立たれる親の悲劇は、子を持って初めてわかります。生命保険金がどうのという話ではないのです。お金などこの種の悲劇の前には、意味をなさないのではないかと思うほどです。我が身に置き換えると、身震いするほどの恐怖を感じさえします。
・さらなる悲劇と縁うすき孫。
長男は優秀で一流の国立大を出て、東京に家族をもうけていました。田舎の父母のことは気になりつつも、孫の顔を見せるのが年に一回二回です。この時代、嫁も夫の実家に馴染むことがありません。どこでも見かける核家族化のパターンです。
孫が大きくなり、東京の国立大に現役合格して喜んだのもつかの間で、程なくして長男が原因不明の出血病で他界してしまいます。もう見ていられない悲劇です。
後に残ったのは老いた夫婦と、縁の薄い嫁と孫です。それも遠く離れていますから、助け合うどころではありません。それぞれが生きていくだけで精一杯になってしまいます。何の因果でかくまでも不幸に見舞われるのかと思うほどです。
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◆ 生命保険は、悲劇には無力。
このとき思ったことですが、その時その場では悲劇に対して生命保険は無力であると言うことでした。生命保険金の請求の手続きをしつつも、お金など見れば悲しく腹立たしいばかりです。
二人の子に先立たれ老いた半身不随の奥さんにとり、ご主人がおられる間はまだよいかもしれません。しかしその先に待ち受けている孤独の時間を思うと、ひとごとながら戦慄する思いです。
ひとりで生きていく覚悟もいるでしょうが、どこかの施設にでも入ってお迎えを待つよりないのでしょうか。時代とはいえやりきれないものがあります。
生命保険金があれば、施設に入居することはできます。でもご当人にしてみれば、お金があってももはやうれしくもないですが。
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